
イベントに関する最新のコラムをお届けします。
※公開イベントギャラリーを設置しました。
これまでのシューレ大学公開イベントの様子をこちらからご覧ください。
「世界を自分にとりもどす」について
みなさんは、自分を「私」と認識するのに一体どういう基準で考えますか。名前、所属、肩書き、性別、年齢、いろいろあるかもしれない。でも、全てなくなったときに、私は一体どうやって「私」として社会に存在しようとできるでしょうか。
私には名前や所属や肩書きはあって、社会の一員であるらしい。でも、私がいくら私として社会に働きかけたところで、なにか変えられるとは思えない。私は人に影響を与えないのだとしたら、どうして生きているんだろう。もっと肩書きや所属や名前が社会にとって大きな意味を持つものならば、人は私を認識してくれるだろうか。
そんな風に、私という存在が非常にあいまいで、危ういように感じられる。私が世界で生きているってどういうことだろう。そうやって「私、私」となること自体、世界が見えていないから思うことなんじゃないか。ならば、と思って世界に目を向けても、とっても視界が開けるとは思えない。
そういう私たちは、私を失った状態でいるのかもしれない。世界を見ているのは私だとしたら、私が私を失っているとは、世界を失っていることである。そういう私たちは、自分の目で自分の見たい世界をどうしたらみることができるのか。
私に世界をとりもどす、そのことに正面から向き合おうというのを高史明(コ・サミョン)さんの講演、シューレ大学での映像制作についての対談、学生の研究発表を通して、今回のイベントでやろうとしています。
今の自分や生活に閉塞感を感じているけど、一人ではどうにもならない感覚のある方、そういう娘や息子がいるけどどう接していいかわからない父母の方、ぜんぜん理解できないから考えてみたい方、ぜひ当日会場に足を運んでください。
早稲田奉仕園スコットホールについて
奉仕園は、1908年米国バプテスト教会宣教師であったH.B.ベニンホフ博士が、早稲田大学の創始者大隈重信氏の依頼を受け、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」を開いたことに始まり、1911年に「早稲田奉仕園」と正式に命名されました。今年で設立100周年を迎え、写真展やコンサート等のイベントが満載です。
今回シューレ大のイベントでは、1921年にスコット夫人の寄付により建てられた「スコットホール」という聖堂をお借りします。奉士園の敷地に足を踏み入れると赤レンガのスコットホールに迎えられます。独特の暖かみのある空間、神聖な時間は、他の場所では作り出せないものです。2003年の公開イベントもスコットホールで行いました。再び公開イベントをこの会場で行えることを嬉しく思います。
ゲストの高史明(コ・サミョン)さんについて
高史明さんは、在日朝鮮人として日本に生まれ育ち、3歳の頃に母親に他界され、少年時代は在日であること、父親の自殺未遂、貧困ゆえの弟の死など、朝鮮人の自らが日本語で自我を形成することへの葛藤、人が生きるとはどういうことか突きつけられざるを得ない人生を送られています。
息子の岡真史くんの自死を境に、それまでよりもっと〈いのち〉とはなにか、今の世に生きる人々の苦しさ、生き難さとはなにか向き合うこととなったと高さんは言います。「自分の生の条件は〈ない〉から始まっている」(高文明著『いのちの優しさ』より)。私とは何者であるのか、人の生死とはなんなのか常に向き合い、考え、小説家として書き続けられています。著書に『生きることの意味』『闇を喰む』、『僕は12歳』(編集)があります。
そういう高さんの葛藤やご経験は、「世界を自分にとりもどす」という今回のイベントテーマに豊かさを加えてくださることと思います。
言葉で自らを掘り下げ、考えるということについて
今回のイベントは、言語により自らを表現し伝えるということに重点を置いています。
基調講演の高史明さんは、少年時代を小説に書くことが、自分と向き合うことの始まりと言います。
私たちの研究発表では、擦り切れることでしか毎日を送れないのではないかという膠着感に向き合い、自分はどういうふうに生きて行きたいのかを探る発表や、映像対談ではどのようにして自分たちは映像をつくることに向き合ってきたのか、そのことを振り返り、どういう映像制作が自分たちに必要であるのか深めます。
言葉によって囚われるのではなく、言葉によって自分たちを自由にしていくということを日頃私たちは積み重ね、試みています。それは自分の中でもやもやし、浮遊している感覚を言語化することで、命を吹き込んで形を与える事で、よりそのことを捉え易くし、さらに自分がどういう方向へ進んでいきたいのかを探る手段だと思うのです。
作家。1932年山口県生まれ。『生きることの意味』で日本児童文学者協会賞を受賞。しかし、同年、息子の岡真史が自殺、その遺稿詩集『ぼくは12歳』を妻と編纂した。その後も生きることを真摯に問い続けた深く明快な文章を発表し続け、親鸞の『歎異抄』から読み解いたメッセージを著作、講演などで表している。著書は『闇を喰む』(角川書店)など多数。

どうしても気になって仕方がない、考えずにはいられない、自分の内側から湧いてくることを掘り下げていくのがシューレ大学の自湧研究です。2人の学生が研究成果を発表します。
◆「どのように僕は膠着していったのか」
毎日はそれなりに順調にこなせている。でも、どこか、何か、擦り切れる感じがあり、身動きが取れなくなっている。この状態を変えていくために、どのようにそうなってしまったのかをたどり、考察する。
◆「失われた自画像」
私の「生」は間違っている。私の感性・価値観・言葉は、全て人間以下なのではないか。気づくと、私は自分の答えを他人にゆだねるようになっていた。もう一度自分を取り戻すために、どのように顔を失っていったのかを探る。
シューレ大学では、忌憚なく意見を出し合い、作品に真摯に向き合うということを大事にしながら、映像の共同制作をしている。映像でつながり、世界を自分にとりもどすとはどのようなことなのか、近作の映像の上映を交えて大いに語る。
自分のことが何ともならないから人や社会とつながれないのか、人や社会とつながれないから自分のことが何とかなると思えないのか。どうやら、どちらでもあるようだ。ならば、私たちはどちらにも果敢に取り組んでいきたい。自分を知る・表現するというところから始まった私たちは、ここからどのように人や社会とつながりえるのか、知る・表現すると格闘する学生が大いに吠える。




