2018.01.17更新

学生の声

 

※過去(または現在)学生が書いた文章を、時々紹介していくシリーズ第7回目。

【シューレ大学活動報告】No.34(2016年度第3号、2017年1月11日発行)より

「私とは何者か」

「私とは何者か」を考えてきた。意図的にではない。「私とは何者か」を考えることを尊重されるシューレ大学で私がしてきたことの殆どが、結果的に「私とは何者か」という問いに通じているのである。しかし問いは回答でなく、常に新たな問いとして立ちあがり続ける。
「何者か」にあった問いの比重は、「私」へと移る。私が「私」を意識し、「私」と言明する時に、何が表されているのかを考える。〈私とは何者か〉とはどのような問いなのか」と、問いについて問わざるを得ない。
「私」は〈選択〉が怖かった。選択には決断が含まれ責任が伴う。責任は重く「私」には到底果たせない。日々は選択の連続で、「私」からして「貴方」であるところの「私たち」も楽々に、あるいは渋々に、選択して生きている。それが生きることであるようだ。その点「私」は、ダラダラのズルズルで選択から逃げている。かと思えばすぐキレる。「誰か決めてくれないかな」とつぶやくが、そしたらお前を殺してやる。だるい。酒でも飲んで寝ちゃお。俺ってなんてダメなんだ。死にたい。でも死ねない。
「私」とは個人であり、孤人(最首悟)である。それが不登校をして以来〈社会からはじき出された〉と感じ続けて生きてきた、私の「私」である。肩代わりされることのない〈孤人の責任〉は大変に重い。一般に「自己責任論」などと呼ばれるそのような気持ちの人が、この社会にはたくさんいる。
シューレ大学という場で学び書き読み聴き話しを繰り返しているうちに、私は孤人のことではなくなった。私が私を意識する時、他者や場が含まれるようになった。選択・決断・責任は分有され、私は以前よりはだいぶ軽やかに日々を選んでいる。他者や場を前提とする私は、貴方の選択・決断・責任も引き受けたいと当然のように思える。「責任なんて取れないけれど責任は取りたい」と無責任に思うのである。
2016年度でシューレ大学を修了いたします。シューレ大学で学んでいた長い期間、私を助け、応援し、あるいはご迷惑をかけ、仲違いをしたすべての皆様に心からお礼を申し上げます。直接のご挨拶ができない非礼をお許しください。まだ会ったこともない方も含め、この文章を読んでいただいた方々と共に生きていくことを、私は望んでいます。

信田風馬